ラオス

 「かけ橋」や「もうひとつのかけ橋」に掲載された記事などを中心に現地の様子や現地でのNVCの活動に関する情報をおとどけします。

ラオスレポート

ラオスレポート-index-


「難民を出さない国づくりを」(「掛け橋」第1号:1989年10月1日発行)

難民を出さない国づくりを
 ベトナム・カンボジア・ラオスのインドジナ三国の難民問題は、現在私連日本人の全てが知るところで、ボートピープルと呼ばれる 難民は、日本での生活を夢見て、たくさんの人々が命をかけて脱出してきています。

【なぜ、彼らは難民に】
 インドシナ三国では、長 い間内戦が続き、国中が疲弊しました。社会主義国になって西側の援助が激減した上、農業は自給自足すらできず、また、格別な産業もないため、人々の生活は困難をきわめています。  
 特にラオスは、山国であり、山間部では米もとれず、生活できない人が難民となっているのです。

【五人に一人は五歳までに死亡】
 山間地の農家では、母親が栄養失調で、生まれてくる子が未熟児、おまけにお母さんはおっぱいも出ない。少し育っても、子供自体が栄養不足の上不衛生なため、 マラリアのほかちょっとした病気で死んでしまう...。ある母親は、5人生んで5人共死んでしまい、なんとか生かす方法はないかと私達に質問するありさまです。
 ラオスの難民を救うには、「国内で難民を出さない村づくりをすることしかない」とJVCは、二年前よりラオスの婦人連合と共同で、なんとか貧窮と子供の死亡率を減らすべく協議を重ねた結果、「食べられる村」 「健康を保証できる村」づくりが必要であり、また、長期展望の中で生活向上を図るには、村で活動できる人材の養成が必要であるとの結論に達しました。

農村女性に自立心を!!
【女たちがラオスを変える】
 とりわけ、ラオスの女性たちは働き者であり、農作業・育児・炊事のみならず、水汲みから荷集めまでこなします。JVCはこうした村の女性の生活改善こそがラオスを変えることになると考え、昨年夏、生活改善指導員養成プログラムを作成し、養成のための研修センターを首都ビエンチャンに建設しました。

【母子保険・。栄養J育児・▼農業】
研修センターでの養成プログラムでは、母子保健・栄養・育児・農業などの分野で行なわれます。 このプログラムの特徴は、養成内容をより充実させ、具体的にするため、指導員達が教科を修了し村を巡回して直面した問題や疑問を3カ月後に再度センターに持ち帰って、お互いに議論できるようにカリキュラムを組んだことです。

【第1回研修生27人】
 その研修生の第一期生が今年6月から一生懸命学んでいるところです。まだとまどいもありますが、皆がんばっています。

ラオス
【位置】 インドシナ半島にあり、北は中国、南はカンボジア、東西をべトナム、タイに挟まれ、特にタイ人との国境はメコン川沿いにあり、人的交流が盛ん。、
【人口】 三六〇万人。
【国家】 一九七五年、ラオス人民民主共和国が無血革命により成立。以後社会 主義政策をとっている。
【民族】 多民族(60)国家
【言語】 ラオス語(フランス領時代があり、仏語も)
【宗教】 仏教
【産業】 農業
【難民】 長く続いた内戦で国は疲弊し、内戦時反対勢力だった人たち、村がさびれて食べられなくなった人たちが難民となってタイ方面から出て行った。その数約30万人といわれる。

ラオスの母-BSNラジオ放送生番組より-

●面積は本州ぐらいの広さ
 増山 今日はお二人のゲストをお招きしました。ボランティアでラオスで大変活躍されている谷山博史さんと、アジアコネクションでアジアの話をたくさん聞かせていただいた、新潟大法学部の多賀秀敏教授です。
 鍵富 谷山さんはどんなお仕事をされており、ボランティアで、ラオスとの関わりをどうしてもたれたのでしょうか。
 谷山 日本国際ポランティアセンターというのは、ヴェトナム、カンプチア、ラオスの難民が大量にタイに流れ込んできた時に、日本の若者が難民を救おうとタイに集結し、個人では有効な活動ができないと造った団体です。当初は緊急救援でしたが、難民がなんとか元の国へ戻れるような国造りが必要ではないかと活動を続けているわけです。
 鍵富 ラオスという国の雰囲気・政治・経済はどのようなものなのですか。
 多賀 広さは本州と同じぐらいで、人口は四〇〇万弱、新野県と山形県を合わせたぐらい、山岳民族で六〇ぐらいの民族がいます。
 鍵富 難民というくらいだから、経済的には貧しいのでしょうね。
 多賀 人口も二桁違うし、国民所得も二桁違うのではないかと思います。
 鍵富 教育はどうですか。
 多賀 一応全員が入学することになっていますが、実際に入学するのは八〇%、卒業は一五%ぐらいですね。子供も大事な労働力です。大学はわずか一%ほどです。

●出産は平均8人
 増山 ラオスのお母さんは子供は何人ぐらいですか。
 谷山 平均八人ぐらいは産みますが、一〇〇〇人の内二〇〇人近くは五歳までに死んでしまいます。原因は栄養失調、母親に体力がない、未熟児で抵抗力がないため病気にかかりやすい、などですが、それでも子供は家事の手伝いなどで必要だということで……。
 鍵富 昔の日本の農村のょうですね。多く産みすぎてまびきしたという時代もあったわけですから。

●元気のない子供連
 鍵富 子供達の様子は?
 谷山 元気がないですね。行儀が良いというのか、日本のようにはしゃぎまわる子を見かけません。慢性的に栄養が足りないこともありますね。
 鍵富 結婚は早いのでしょうか?
 谷山 都市と農村部では多少違いますが、二〇歳前後で結婚し独立しますが、分家するわけで行き来は頻繁に行なわれます。

●農村の生活改善を
 鍵富 呑山さんは今、どんな仕事をされていますか。
 谷山 農村地域に栄養価の高い作物の作り方、その有効な食べ方、また、子供の衛生指導、生活改善指導のできる女性を養成したりという仕事です。
 鍵富 なぜ女性なんですか?
 谷山 女性が家庭では一番の要であり、女性が変わることが生活改善につながっていくとの考えです。
 鍵富 他の国についてもそうですか?
 多賀 女性はどの国でも働き者ですね。農作業・家事・育児・水汲みまで全て主婦の仕事なわけで、忙しすぎて子供を見ることができない。そのことも子供の死亡率を高めています。

●国と民間のボランティアの違い
 多賀 政府は学校や病院などを造りますが、飢えで学校にも行けない子が多い。病院を建てても、医者さえいない。そんな現実にそぐわない援助をしているのです。それに比べ谷山さん達は、その村へ入って、何が必要なのか、どうしたら食べられるのか、どうしたら難民を出さないですむのかに取り組んでおられます。
 谷山 おしつけない、目に見える成果ではなく、彼らが必要としているものを彼らに作らせることが、ニーズに合った援助ではないかと思います。

●愛情の豊かさを学ぶ
 谷山 日本人と結婚したラオスの女性が、夫の父親の「ボケ」に献身的につくす姿を見て、むこうでも親子のきずなの深さに驚かされ、女性の心の豊かさに反対に学ばされたりします。
 多賀 日本は、進むテンポが速すぎて、祖母、母、娘に教えることが違ってしまって、反対に親が子に教わることもあるような時代になりました。
 谷山 ラオスでは、貧しいけれど、機織りなんか祖母、母、娘三人が一緒に織っている。その中で伝統を受け継ぎ、親娘のきずなも生まれる。
 鍵富 昔は日本にもあったような気がします.
 増山 今でも料理の世界などでいくらか残っていますね。味噌汁の味や新潟料理「のっペ」の味なんかは母から母へそして私へと家庭の味が受け継がれているぐらいで、親娘のきずなを反対に学ばされますね。

●新潟とラオスは似ている

 多賀 奥ゆかしくて、心は強くて、働き者で、本当に新潟の女性に似ているんですね。
 鍵富 農業国で女性が働き者で、新潟に似ている。そして、貧しいけれど人との心のふれ合い、親娘のきずななど、反対に学ぶものも多いですね。
 多賀 我々もラオスから学び、そして新潟からラオスを支えてゆく。そうしたいですね。
 増山 新潟県民は、やるまではシャイな部分がありますが、やると決めたら強いです。
 鍵富 どこの国のお母さんも、暖かみと強さと、包容力...、子供を産むから強いんですね。
 増山 産んで育ててゆくパワー。つらいこともいっぱいありますもの。ありがとうどざいました。

----谷山博史氏の略歴------------------------------------------------
○東京都出身
○中央大学法学部卒業
   〃   大学院終了
○JVCのスタッフとしてカオイダン難民キャンプで働き、現在はJVCラオス駐在代表
------------------------------------------------------------------

「新潟」発「地球」行-心の輸出-

新大教授 多賀秀敏
 
 国際化の時代といわれ、地球は確実に狭くなっています。国境を越えた物のやりとりは史上空前の規模に達しました。
 それでは、地球上の富は平均化されたでしょうか。まったく逆です。狭くなった地球の上で、経済的格差は広がる一方なのです。たとえばラオスでは一人当たりGNPは一五〇ドル以下と推定されています。わが国では、約二万ドルに達しています。
 この差は、「文化的で健康な生活」を保障する活動にも影響しています。医師や看護婦、病院の数、栄養の摂取量、識字率、学校に通える子供の数など、どれをとっても驚くほど低い実情です。こうしたことを総合すると、人の命の問題になります。ラオスでは誕生した子供のうち五人に一人が、栄養失調、病気、不慮の事故などで、生後まもなく死亡するといわれています。
  ラオスが長い間植民地だったことや内乱が続いたことも原因です。今、必死で国の再建・発展に取り組んでいますが、国際経済構造が、出発が遅れた国ぐににとって有利ではないことも障害です。発展には外貨が必要なので、無理な輸出をせざるを得ない場合もあります。この国から日本は大量の木材を輸入し、そのために立ち退きを強制された人びとすらでています。
 難民も流出しています。この難民の世話をするうちに、JVCはむしろラオスの国内の開発を手伝おうと考えました。現在、社会の生活改善運動を進める婦人リーダー育成を手がけています。
 この地球をもっともっと住みよくするために、自分も貢献したいという人はたくさんいるはずです。でも国境を越えて発揮するのかわからないという人も大勢いるでしょう。
 ヴォランティアーとして活動する人びとを通じてラオスとつながることができます。新潟にいながらにしてできる立派な国際活動です。新潟市民の心意気でラオスの農村生活を改善しようとする婦人たちを支援してみませんか。ご協力をお願いいたします。

市民一人一人がラオスを救おう

近藤元次衆議院議員夫人 近藤 和枝
 日本のODAについてはいろんな批判のある処ですが、谷山さんは、現地の方々と共に生活の苦しみを味わいながら何が、この国に必要なのか体験され「私達のやっている事を見に来て頂いて、最小限必要な援助を継続して頂きたい」と言われます。特に子供の命を預かる女性の援助に取り組まれている事に心から声援を送りたいものです。

新潟千歳ライオンズクラブ会長 笠原健一郎
 理解と扶助と
 日本のボランティア団体がラオスに贈った母子研修センターが、真に村起し運動の基地となるために、このセンターで学ぶ女性達の献身的な情熱と意欲に溢れた活動を願わずにいられない。
 また、系統的な組織や潤沢な資金が準備されてこそ彼女らの活動が実るのだと思うとき、現状理解が深まり、援助の輪が更に広がることを期待したい。

国際ソロプチミスト新潟-東会長 加賀田富士子
 明日の世界のために
 私達は、ラオスの婦人が国内で安定した生活と、健康な家族、子育てをするためのお手伝いをしています。そして「自助努力」を促すことを基本にしているJVCの活動に賛同し協力しています。
 市民ができる国際親善活動、明日の世界のために皆様の温かい友情の一品をご寄附下さいますようお願い申し上げます。

主 婦 今西美恵子
 先日JVCのラオス駐在代表の方にお話を伺ったが、平和で豊かな日本に住む私達には想像を絶する現伏であった。今私達に出来ることは何だろう.経済大国の驕りを捨て自分の大切な時間と心を何に向かって多く使う事が出来るか、他人の為にさせて頂く事によって自分も又嵩高な境地に生きる事が出来る。一人では無理。大勢の真心が集まればきっと、きっと……。

農業委員 皆川 書作
 命の大切さ
 天びに干した米はおいしい。植物は全て青味のあるうちに、種に栄養価を送り続けるからなのですが、生命の尊さを私は農業から学びました。
 ラオスの話を聞いていると、日本の歴史、農業国の歴史は時間差こそあれ私たちの悩んできたことを今、彼らが悩んでいるような気がします。特に、農家の主婦が働き者であると聞いて新潟の女に似ていて新潟の農家の我々に人事でないような気がします。
 現在、農家の生活回線にて取り組まれているとのことですが農業の歴史歴史は一朝一夕にはできませんが、がんばって欲しいと思います。




愛の手が着実にラオスに:(「掛け橋」第2号:1990年3月30日発行)

愛の手が着実にラオスに


新潟市民の援助が指導員を育てる!!

 去年十一月、新潟市のグリーンプラザで開催された「ラオスの子供を救おう愛 の掛け橋バザー」は、おかげさまで大成功をおさめました。この成功を、現地で活動するボランティアーたちに一刻も早く伝えて励まし、この目でプロジェクトの実態を確かめたいという思いから、十二月に十日間ほど現地を訪れました。

【ラオス初の民間協力】
 ヴィエンチャンは、落ち着いた街です。めざすJVCの 「友好母子研修センター」は、メコン川のすぐそば、ラオス女性同盟本部の隣にありました。清潔なクリーム色の二階建てで五〇人が泊まりながら研修を受けられるよう施設が整っています。日本からラオスヘの初の民間協力プロジェクトにふさわしいものです。

【村人からも高い評価】
 この建物で研修を終えた一期生たちに会いに近郊の県にも行きました。活動に寄せる村人たちの期待と評価がきわめて高いことを知りました。「母子保健や栄養徹生、野菜作りなどの農業技術、こうした知識については、これまで各省庁からバラバラに来る役人が集会を開いていた。集会に出るのは男衆ばかりで、結局、地についたものにならない。ところが、今回の活動では村の女性代表が直接研修を受ける。帰ってくると、村の家を一軒一軒回る。こうした知識が真に必要なのに家から出ないので聞くチャンスのない女性たちに確実にいきわたる。その上いつでも相談に行ける。そんなにいいことはない」これが村人の意見でした。

現地プロジェクトを参観して
【善意は着実に人々の手に】
 今回のバザーに寄せられた善意は、政府が行う巨大援助とはひと味違って、「今まさに協力を必要としている人々」 の手に確かに届いいると実感しました。JVCは、このプロジェクト
を地方にも拡大しようとしています。すでにもうひとつの新たな「母子センター」の建設に着工しました。

【世界でもめずらしい】
 滞在中、視察中のアメリカの国際民間団体(NGO)PACTの女性に出会いました。PACTは、NGOを訓練するNGOです。今回のバザーの顛末を話すと、信じられないと驚いていました。「アメリカでこうした基金集めをしようと思ったら政府や国際機関に頼むか、教会に頼るしかない。何も組織のない所で、ラオスと縁もゆかりもない地方都市で、市民運動的にこれだけの善意を集めるとは考えられない」ということです。世界的にも珍しいし、アメリカでも参考にしなくては、というのが彼女の結論でした。世界のモデルケースを今後も新潟から地球発信し、同時に活動を通じて新潟自体を魅力ある地域に変えていくという決意をあらたにした次第です。

ラオス
【位置】 インドシナ半島にあり、北は中国、南はカンボジア、東西をベトナム、タイに挟まれ、特に、タイとの国境はメコン川沿いにあり、人的交流が盛ん。
【人口】 三六〇万人。
【国家】 一九七五年、ラオス人民民主共和国が無血革命により成立。以後社会主義政策をとっている。
【民族】 多民族(60)国家。
【言語】 ラオス語(フランス領時代があり、仏語も)
【宗教】 仏教
【産業】 農業
【難民】 長く続いた内戦で国は疲弊し、内戦時反対勢力だった人たち、村がさびれて食べられなくなった人たちが難民となってタイ方面から出て行った。その数約30万人といわれる。

新潟市民へ御礼の訪問新潟を愛する心をラオスへも
 3月13日の午後、ラオスから、ラオス婦人同盟の幹部で、母子訓練学校の校長の、カム・オン女史が、先の新潟市民運動でのバザーの御礼に、新潟市長へ表敬訪問した。同行してこられたのは、このバザーの架け橋役になった、新潟大学の法学部教授多賀秀敏(国際関係論、平和論)氏と、JVC(日本国際ボランティアセンター)の谷山博史ラオス駐在代表等で、市長応接室で三十分程、歓談した。
 今回の訪日は、関西で開かれたNGOの国際会議に出席するのが目的。その折どうしてもラオスに愛の手を下さった新潟市民へ御礼がいいたくての来港となった。

『暖かい心にふれて』
 「新潟市へ来る途中で、始めて雪をみました。新潟駅へ着いた時も大変寒いと感じました。でも、新潟の人々の暖かい心にふれて寒さもふきとびました」とカム・オンさんが話せば、  若杉市長も「新潟地震の時、世界各地から、心暖まる援助を頂き、その時の事は忘れません。困っている時はお互い様です」と。
 「バザーのお金は、母子研修センターでの女性指導員の育成に使います。第一回の卒業生20人が、地域へ帰って多くの人達に研修成果を広めております。今、第二回生が研修している処ですが、まだ17県の内4県の人達しか参加できませんどうか、これからも暖かい新潟市民のご協力をお願いします」とのお願いに、市長も「新潟市民の一人として、継続してのご支援が続く事を期待しており、私もできるだけ協力していきたい」と答えておられました。

新潟市の女性団体の役員と
 カム・オン女史が、新潟市にこられるという事で、 「にいがた女性大会」参加者の方々が、急遽会合を開いて下さり、新潟市民運動での擾助が、どんなにラオスの国の子供を救う事になるのか、現状のスライドを見ながらカム・オン女史・谷山氏の訴えに耳を傾けた出席者たちは、同じ母親としての悩みに深く共鳴し、たくさんの質問がだされ、「本当に有意義な会に出席させて頂きました」という声も。カム・オン女史も心温まる女性の方々にふれ、「皆様が新潟を愛するのと同じように、ラオスにも愛をわけて下さい」としめた。

新潟市民に感謝します
カム・オン・ペッダォホン女史
ラオス婦人同盟幹部、「母子訓練学校」校長
 新潟市民の皆様の暖かい善意は、ラオスの国にとっては大変ありがたいものです。
 今私共は、女性の研修のプロジェクトを行っております。その一期生20人が地元へ戻って農村の生活改善の普及にあたっております。母子保健や栄養衛生、農業技術等の知識は、今迄は男性中心でしたが、今回のJVC・ラオス婦人同盟のプロジェクトは、村から女性の代表を選んでの直接研修で、一期生は、早くも地域で、確実に広がりを見せ大きな成果をあげております。現在二期生20人が一生懸命学んでいる処です。
 でも、まだまだ17県の内わずか4県の人達にしかすぎません。新潟市民の暖かい協力で、ラオスの農村生活の向上と、乳幼児の死亡率低下が確実になります。
 どうか新潟市民の暖かいど支援を、これからも続けて下さるよう心からお願い申しあげます。

谷山博史

JVCラオス代表
  先回のバザーでは、二百十万円を超す収益金をあげられたと聞いて、ビックリすると同時に、新潟市民の皆様の暖かいお心に深く感謝致します。
 特に、何の組繊もなく、縁もゆかりもない、新潟という地方都市から市民運動が起こり、国境を超えた支援の形は、世界的に珍しく、、他のNGOも今回の新潟のバザーを高く評価しております。
 また新潟市民の活動は、ラオスで働く私達ボランティアIにとって、どんなに心強い励みになるか計りしれません。どうぞ今後とも新潟−ラオスの架け橋を末永く結んで下さることをお願い致します。
 カム・オン女史は各地を廻りましたが、新潟訪問を一番楽しみにしていました。市民の皆様に、日本語で「ありがとうございました」と言え、日本流のお辞儀でお礼ができたとよろこんでおりました。



ラオスから感謝の手紙(「掛け橋」第3号:1991年3月30日発行)
日本が見えてきた
-第2回NVCスタディーツアーに参加して-

新大法学部学生
大谷 豊

 第二回NVCスタディツアーは、昨年十一月にラオス・タイ・シンガポールを十一日間の日程で訪れた。NVCの今後の協力の道を探る目的で、参加者は公募せずに直接助言をできる農業やコミュニティ問題の専門家等でチーム編成する予定であった。日程が折り合わず、結局コーディネーターとして新大の多賀先生、ラオスの写真展や写真集を手がけるために写真家の山井氏と、学生会員を代表して私の三名が訪れた。
 贅沢な少人数だったために、ラオスの現状、NGOの活動をつぶさにみれた。中でも、JVCの井戸掘プロジェクトの現地を参観できたのは、本当に幸運であった。
 井戸掘は、村の生活の基本となる水の供給が目的だ。水運びは子供、女性の仕事。井戸のない村では、時には、一、二時間かけて水を運ぶ。そうした村にJVCはありきたりの材料で出来る井戸掘り技術や水汲みポンプの作り方を伝授する。
 JVCがコーディネートしてタイから先生を連れてくる。実習は、村人の自立性に任せている。村人がそれを覚えて次々と近隣の村々に技術が伝わることを目指しているからだ。最初のうちは戸惑い気味だった村人も井戸掘りが進むにつれて熱気があふれてきたのがよく感じられた。
 井戸掘を子なった村は、ラオスでは、平均的な部類。実習の前の講習は、村の小学校を一週間休講にして、その校舎を使って行われた。そういわれるまでは、学校と思えないぐらいの建物だった。床は土を踏み固めたまま、壁は高さ一メートルくらいの竹とヤシの葉、天井は屋根のトタン板があるだけだった。
 この村で指導にあたっているラオス女性同盟のナパーさんによると、大人たちが共同養魚所の収益を大切にとっておいてトタン板の葺きかえ代を賄ったそうである。その話をするとき思わずナパーさんが「ラオスの農民がかわいそうだ」といってポロポロ涙を流していたのが忘れられない。  その晩、ボーリカムサイ県の県都ターケクで、副知事が、歓迎宴を催して下さった。彼ははっきり「新潟国際ボランティアセンターからようこそ、今後とも協力、交流が続くことを望みます」と挨拶した。NVCに集う新潟の人びとが考えたりやったりしていることが着実にラオスに伝わっているという自信を深めた。
 今回のスタディツアーでは、四〇年間の戦争に続く新しい復興の時代が今ラオスに訪れていることをはっきり認識できたとともに、日本と比べて生活水準ははるかに低いのに、日本にはない何かがラオスにはあることを実感した。物資文明にドツブリ凍ってしまっている日本の社会システムのほうがかえって憂慮すべきことがたくさんあるのも学びとった。日本が見えて来たと言ってもよい。ご協力くださったNVCの皆さんにこの場ををかりてお礼させてください。ありがとう。

ラオスから感謝の手紙
新潟国際ボランティアセンター様

 拝啓
 例年になくこちらは暖かい冬を迎えていますが、新潟はいかがお過ごしでしょうか。 さて、この度はラオスプロジエクトに百二十五万円の寄付金を頂きまことにありがとうございました。

 ラオスプロジェクトはJVCのプロジェクトの中でも比較的小さなプロジェクトですがラオスという国の知名度の薄さや人材育成というプロジェクトの性格上いつも資金集めに苦労しています。この青色吐息のプロジェクトを最も協力に支えてくださっているのがNVCの皆さんです。
 また資金的に支えてくださっているだけでなく、現地スタッフが新潟を訪問する械会を与えて下さったり、ラオスの現場を見に来て下さったりと人と人との繋がりを通して、新潟とラオスを目に見える形で繋いで下さっています。JVCのプロジェクトのな紙手のラオスから感謝かでも地域ぐるみでプロジェクトを支援して下さった初めての例と言えます。面白いことに新潟とラオスの例が新鮮で強烈であったために、JVCの他のプロジェクトも盛んに日本の地方と結ぼうとしています。タイプロジェクトが山形と、ベトナムプロジェクトが大分と、といったぐあいです。
 一方ラオスの現場では、NVCがスタディツアーで訪問した11月の始めからは12月にかけて、重要なプログラムが目白押しでした。普及員と農民による簡易井戸掘のトレーニング、普及員のタイスタディツアー、第一期普及員全員のヴィエンチャンでの報告会などなどです。これら一連のプログラムを通して、最初この国で初めての生活改善普及貞の活動に戸惑っていた普及員も、自分たちの貴任を自覚し、農村の生活改善の方法を自分のものにしていったことが見て取れます。
 人材養成には時間がかかります。それ以上に農村の生活改善に時間がかかります。しかし私達がラオスの将来(それは第三世界と日本の問題でもあります)を共に考えていくラオスのカウンターパートが確実に、ラオスに育っているのです。

 JVCはこの春、ラオスプロジェクトの資金集めのためのキャンペーンを行ないます。ラオスの絵はがきもやっとできました。キャンペーンでは新潟でも是非協力していただきたいと思っいます。企画書ができ次第改めてお願いしたいと思います。
 どうか今後も末長くご支援いただきますようお願いいたします。

                        
一九九一年一月二四日
   JVCラオス代表
        谷山博史


ラオス伝統織物(「かけ橋」第5号:1992年3月26日発行
ラオス伝統織物

 一九九二年三月二六日から二九日まで、ラオス染織研究家タィケオ・サヤヴォンカムデイさんのご協力を得て、東北電力グリーンプラザにおいてラオス伝統織物展が開催されました。新潟でラオスの伝統織物が紹介されるということ、展示物は専門家からもその芸術性が高く評価されているラオス染織物の中でも、一八世紀から一九世紀にかけて製作された逸品ばかりであるということ。今回の織物展は、二重の意味で、ラオスの伝統文化に触れる絶好の機会であると言えます。

 ラオスの織物の歴史は古く、紀元前二千七百年ころには中国から伝えられてきたと言われます。それから織物技術は、主に家庭で日常的に母から娘へと受け縦がれ、ラオス女性の家族への愛情と共に育ってきました。蚕や綿花から糸をくり、身近な草木で糸を染め、自分でデザインして機を織る。作品によっては三百日近くかかるというこの工程が、はるか昔から繰り返され、ラオス伝統織物文化と呼ばれるに至ったのです。 

 六八とも言われるラオス国内の民族は、彼ら特有の模様を布に織り込み、それを民族の証としました。特に織りに長けている民族として、サムヌア地方(ラオス北部)の赤タイ族、タイルー族、古都ルアンプラバンまで南下し、そこで織りの技術を遺憾なく発揮したカム族が挙げられます。どの民族にとっても絣がバターソの基本ですが、独自に育まれてきた織物文化は多様なことこの上ありません。

 例えば赤タイ族、彼らの織物には動物をモチーフにした模様が多く見られます。ナーと呼ばれる龍、モムと呼ばれる象のような頭。彼らは、人間はナーとして生まれてくるという言い伝えをもち、葬儀用の巻きスカートにはそれを含めた三種類の模様を織り込みます。素材に適した染色をするのも彼らで、絹は紅色、綿は藍色、模様の部分はオフホワイトに分けられます。

 その殆どが仏教徒のタイルー族は、高度な技術が必要であるとされる、空の上を流れていく白い雲の模様をもちます。タイルー族の描くナーは、赤タイ族のそれと比べると頭の部分が小さいことが特徴。また、蛇の目をモチーフにした大きな目の模様には、人間以外の「第三の目」 として、世の中のよい所を見るという意味が込められています。

 カム族の織物は、言うまでもなく貴族の装飾用として重用されました。王族や貴族が専属の織り姫として雇用したのは、もっぱらカム族の女性だったのかもしれません。パービアンという肩掛けと、シンという巻きスカートのコーディネーションは、都に住む女性にとって最大の関心事であったようです。

 代表的な染料としては、黄色用のへーム、藍色用のモニン、紅色用のカン (虫) があります。長い時間がたっても色褪せることなく、新たな色を見せていくのは、こうした天然染料によって発色させられた糸です。わたしたちがラオスの伝統織物文化の中に発見した可能性は、そこにあるのかもしれません。

 NVCは今年度から、このラオス伝統織物文化を保存し、生活改善につないでいこうとするプロジェクトを開始する予定です。保存のための保存ではなく、歴史や伝統的価値観といったものから新しいものを生み出そうという試みです。ラオス側での織物文化を保存しようという機運は、既に高まっています。ラオスの女性が一本一本の糸からゆったりと機を織るように、NVCとラオスの関係も確実に織り上がっていきます。
(実行委員  西村)



ラオスの文化財について(「かけ橋」第6号:1992年7月1日発行)
ラオスの文化財について
トンサ・サヤボンカムディさん(ラオス情報文化省博物館局長)の講演
平成四年三月二十九日 東北電力グリーンプラザにて

 ラオスには四千年の歴史があります。日本に似て殆どの村には寺があり、寺には寺小屋があり、以前はたくさんの子どもたちに利用されていました。仏教(小乗仏教) は七世紀から入世紀ごろラオスに入り既に千三百年の歴史を持ち、その昔、仏教は人民に信仰されていただけではなく、王国に対して大きな貢献をしていました。そして現在文化財としてとりあげられているものも殆ど仏教的なものです。しかし残念なことに、現在ラオスの中には文化財を保護するシステムがありません。

 三つのことを事実としてあげることができます。その一つはラオスには文化財があるということ、二つ目はその文化財が保護されていないということ、三つ目にはラオス人がその大切さに気づいていないということです。

 現在政府が政策として行っているのは現存する重要なものを文化財として保護し、人々にその価値を知らしめようということです。ラオスをとりまく国々、タイ、ベトナム、ミャンマー、中国、カンボジアでは文化財が保護されているのに、現在ラオスでは文化財保護法のようなものがありません。一九七二年、文化省に博物館局が設置されましたが保存のための機材がなく、専門家などもいません。しかしそれよりももっと危険なのはラオスの人々が文化財保護の重要さを理解していないことです。
 四年前のこと、あるお寺が燃やされてしまいました。それは四百年くらいの歴史がある古いお寺だったのですが、その後、新しく建て直されたお寺はコンクリート製でした。みんな「これは長くもつぞ!」 と言って……。

 ブロンズ製の仏像にペンキで色を寺がバラ色なんかに変えられてしまっていることもあります。寺の内部のものも簡単に捨てられてしまう。寺では誰が保存するということなく、寺の内部の大切なものもお紡さんこれは捨てようと言っただけで簡単に捨てられてしまうのです。ルアンプラバーンにワットマインという六百年くらいの歴史を持つ木造の寺があります。そのお寺もそこのお坊さんが 「タイの寺院(金ピカ) のようにしろ!」 と命令しました。

 ラオス人の家についても同じことが言えます。家の保存権はその家の人にあるのだから、美術品などについても同様で、非常に重要なものも博物館に置くということがありません。コレクションがないから、人が「見る」榛会もない。そういった環境の中で人々が価値や意味を知ることもないのです。

 ラオスがこれからの行うべき対策としては、政府の中に機関をつくり文化財を保護していくこと、保護をする法律を確立すること、活動体を造ること、それにラオス人をトレーニングする機会をつくるのも必要だと思います。

 三十年にわたる内戦後政府は経済復興のためには努力しました。しかし、文化面については追いついていない。文化財の保護よりも、今は経済開発が大事だという人もいます。文化財保護は経済開発が進んでしまってからではもう遅いのです。ラオスは自国の文化を守ることにもっともっと手をつくすべきです。なぜなら我々は自分たちのアイデンティティーを確立するために独立を勝ち取ったのだから。


ラオスにて-第7回・第8回ツアーに参加-(「かけ橋」第7号:1993年11月1日発行)
第7回・第8回ツアーに参加
ラ オ ス に て

 「みなさん、日本の国土に占める森林率が何バーセントかご存知ですか?」農村の人々の生活改善とともに今世界中で盛んに議論されている環境問題であるが、JVCの赤坂むつみさんは森林問題にも詳しい。現在日本の森林率は68%、自然の恵みを大量輸出し続けた結果、タイの森林率はたったの7%。これ以上伐採をすることができなくなったタイに代わり、森林伐採の波はラオスに押し寄せた。「一九五〇年代に70%を占めていた森林率は、入二年の調査では47%、そして現在は36%しかないんです」。一見、緑に覆われているようなラオスに対するイメージからツアー参加者一同は驚いた。タイ、カンボジアで商業伐採が禁止され、内紛の続くミャンマーでの伐採は非常に難しい状況で、ラオスの森林伐採が急速に進んだのだ。ラオスでは違法伐採というより合法的な伐採が深刻な問題なのだそうだ。「地球環境をと訴えるより、村人の立場から、村人が中心となって考え、森を守っていかなければなりません」。企業による大規模な伐採もさることながら、もともと焼畑をする民族にとっては伐採をしてしまったところは、なお、焼畑がやりやすいらしい。農業のやり方も少しずつ変えていくことになるだろう。

 赤坂むつみさんのご主人、松本悟さんは、「村人の生活がいかにすばらしいものか外から気付かせてほしい」と言った。コミュニティ・フォーレスト、つまり自然と共に生活ができる環境がどんなに豊かなものであるか是非彼らに知ってもらわなければならない。「村人自身で気付き、何がどう変化しなければならないか、自分たちで解決方法を考える。それに手を貸すことが私たちの仕事なのです」。ラオスでのいろいろな問題はそこだけで解決できない、日本にも振り返って考えるべき問題であるという。松本さんは日本にラオスの人々の生活を理解してもらおうとビデオも製作している。
 ツアー参加者一同が翌日視察に行ったナワイ村はヴィエンチャン市から、国道13号線を80キロ、さらに舗装されていない道を、途中いくつかの村を通り過ぎながら西へ20キロ入ったところにある。一九七六年に戦争の混乱を避けて北部のシェンクアン県から集団で現在の所に移住して来たのだそうだ。移住当時二〇世帯だったが、今では一二一世帯になっている。

 村長のサイワートさんは若く、村の小学校の校長も兼任している。
「この村の人たちは雨の日も風の日もいとわず働き、非常に連帯感のあるいい村です」とサイワート村長は言う。「みんな貧しく、比較的余裕がある家は全体の10%くらいにすぎません。教育水準が低いことや、自然に依存しすぎていることなど今の生活には問題がたくさんあります」という。村からは15人ほどの長老や教育、治安等を担当する人たちが集まりいろいろと話を聞かせてくれた。なごやかな穿囲気で、実にナワイ村が村長のもとでうまくまとまっているように見受けられる。「この村には何か新しいことを試してやってみようという好奇心があるのです」と自慢していた。

 磯田厚子さんはJVCラオスに来て二年半になるベテランである。「二年半前にナワイ村を訪れた時、他にもさまざまな問題はあったのですが、とりわけ、村人は米がほしいと切実に訴えていたのです。いろいろと議論しましたが、とりあえず、この米不足を第一に解決しなければ安心して次のことに進めないのではないかという結論に達しました」。そこで、米銀行をすでに行っている他の村へ普及員のポンサマイさんを派遣した。ナワイ村の人々は自分たちで米倉を建て、自分達が中心となって米銀行を運営した。昼食後の炎天下、サイワート村長は高床式になっている米倉の戸の前に座り込み、戸に書きこ込んである細かな数字についても熱心に説明してくれた。
 たくさんの村人と一緒に家と家の間を抜けながら歩いていると、今日はホテルに帰らずに、ここで一泊してみたいとみんなが口々に言う。そんな時、村人が心配そうに空を見上げる。「雨が来た!」黒い雲が簾のような雨をさげてすごい勢いでこちらへやってくる。あわてて家の軒下にはいる私たち。ところが、その反対に、着ている服を脱いで道に駆け出しはしゃぐ村の子どもたち。おもわず、「ふっ」とほほえんでしまう。思い出のスコールとなった。


ラオス:危機に瀕する農村(「かけ橋」第8号:1995年7月15日発行)
ラオス:危機に瀕する農村

◆背景◆
 1994年4月8日のメコン川架橋「タイ・ラオス友好橋」開通に始まり、95年3月17日、ラオス中部に建設予定のナムトウンUダムの電力売買に閑してタイとの契約締結に暮れた1年であった。アジア開発銀行やメコン委員会主導の国際産業道路や100近いダム建設計画が持ち込まれた。これに対して、地元NGOのまだ認められていないラオスでは、情報公開や意見表明は困難であるが、国際NGOのラオス人スタッフを中心に、開発問題を勉強する会をもち始めた。JVCはその中心メンバーとなっている。

◆農村開発◆
 ビエンチャン、ボーリーカムサイ等中部3県12郡、南部4県4郡:1992年から要請してきた各村の村落開発ボランティア約100名の中から、村の問題解決を自分たちから積極的に担う人々が出てきた。相互の活動から学ぶ視察研修の企画進行役を務めるなどの活濯もした。従来、JVCや役所のスタッフが担ってきた役割を、村人が担うようになってきたのは大きな成果だ。また、持続的農業の実践など、村人の生活基盤である農業を軸に広がりを持ち始めようとしている。互助資金支援は、米銀行、養鶏・養豚等の回転資金を計9ヶ村、井戸掘り支援を2ヶ村に行った。乳幼児死亡、米不足の世帯数の減少など基本的ニーズに応えたほか、農作業に割く時間、子供を学枚に通わせる余裕、薬を買う余裕、村内の連帯などが向上した、という声が上がっている。

◆伝統織物保存継承◆
 ルアンパパーン県(2郡5ヶ村)等:女性同盟の伝統織物センターの増改築に着手伝統技術伝承の場となる。社会・文化研究所による伝統織物カタログ作りを支援。失われつつあるラオス各地の伝統織物を記録にとどめた。ルアンパバーン県で支援している自然染色セミナーに関し、中間評価会議を開催した。織物の知識や技術、現金収入、子供の就学率などの向上が村人より認められた。伝統的文化の保存と生活改善という2つの目的の共存が見失われがちになっている問題ある。プロジェクト戦略と今後の在り方を検討することが緊急の課題となっている。

◆村人による森林保全◆
カンムアン県5郡約30村:19村にて養成した森林ボランティアが、森の「健康度」を調べるトレーニングや、タイ東北部と北部への研修などを経て、対象村の約半数が動き始めた。「自分の村の森を孫の代まで守りたい」という森林ボラ、ンティアを中心に、「村人の森」の設置を求める声が高まった。これを受けてJVCとカウンターパートの政府機関、活動地のカンムアン県の森林区分に関する県条例を作成した。これによって村人は自らの森を持てることになり、現在村人主体の森林利用権や所有権の確立が、JVCの支援のもとで実施されている。
(JVC1994年度活動報告より転載)


ラオス農村生活改善ワークショップ実行委員(「かけ橋」第10号:1997年5月26日発行)
ラオス農村生活改善ワークショップ実行委員

 NVC設立のきっかけでもあったラオス農村生活改善プロジェクトへの支援は、いよいよ8年目に入りました。1996年度からは、日本国際ボランティアセンター(JVC)と現地で農村生活改善のためのワークショップを共催するスタイルに移行し、実績として、例年どおり1万ドル(1202488円)を共同事業費としてラオスへ送金、11月には山井和緒会員、井上隆会員の2名から現地へ行っていただき、ワークショップが実際どのように行われているかを観察していただきました。
 これまでNVCが支援を続けてきた成果として、現地では、乳幼児死亡率が低下し、また女性の自律が促されたことなどが報告されています。一方で、急激な資本主義経済の波のなかで、たとえば世界的にも評価の高い伝統織物を手がける人が減少している、森林の大切さが軽視されている、など、NVCが対応しにくい問題の発生も指摘されています。
 今年度も、1万ドルの送金と秋または冬に実施されるワークショップの開催にあわせて会員を派遣することを計画しています。現地との関係をフィードバックし、議論を深めていくなかから、今後のラオスプロジェクトの在り方も探っていきたいと考えています。(文責:西村)


スタディーツアー報告(「かけ橋」第17号:2001年6月11日発行)
山井 和緒運営委員

  2000年度末を飾るかのように、2001年2月21日から2月28日の期間に第32回(ラオス:ビエンチャンとルアンパバン)と第33回(ベトナム:ホー・チミンシティ)のスタディーツア−が実施されました。
  ベトナムからラオスへの参加者もあり総勢16名のツアー行でした。ここ数年のラオススタディ−ツアーでは、久々の活気あるツアーでした。
  ラオスでは、ビエンチャンでJVCの昨年までの活動の総括とプロジェクト村での視察、村人との交流、そしてルアンパバンでは、現地NGOの施設の見学と交流を行い支援の要請も受けました。
  ベトナムでは、プロジェクト視察、見学と問題点を残しているプロジェクト案件の評価と検証を行い短いながらも、非常に多岐にわたった有意義なツアーだったと思います。
  それを、参加者が帰国してから報告と感想という形で、まとめました。先の3月の「もうひとつのかけはし」で新潟大学生の幸田安希子さんの「スタディーツアーを振り返って」が掲載され、4月の総会参加者にも8人分の報告が別紙で綴じられ配られました。そして今回、この「かけ橋」を送られる、すべてのNVC会員となんらかな形でご覧になられる方達にも、この報告集を読まれて何かを感じ取っていただければと思い、編集の方に無理をいい巻末付録として今回の「かけ橋」に付けさせていただきました。ぜひ御一読下さい。


ラオスへの想い−ラオススタディツアーレポート−(「かけ橋」第18号:2001年11月27日発行)
永井亜弥会員

 今年の9 月4 日から1 6 日までの2 週間、私は新潟大学国際ボランティアサークルが中心となって企画したラオスへのスタディツアーに参加した。そこで私たちは世界遺産に指定された都市ルアンパバンにあるC C C (子ども文化センター)を訪問した。また首都ビエンチェンを拠点に活動するN G O 、J V C の活動を見学させていたくだくために村に同行した。

<CCC にて感じたこと>
 私たちが訪問した初日、子ども達は歌と踊りで歓迎してくれた。私たちもお返しに日本の歌を…と思ったのだが、ほとんど思いつかない。いかに自分が日本について知らないかを気づかされた。また、先生が「初め」と口に出さなくても年長者を中心に集い、歌や踊りを楽しそうにする子ども達の姿が印象的だった。子ども達と何か一緒に楽しめないかと運動会と写生会、日本食試食をおこなわせていただいた。写生会においても、その表現力の豊かさに驚かされた。こども達の中に存在するたくさんの豊かさを感じた。C C C はいわゆる児童センターである。世界遺産に指定されたことによりルアンパバンの町には観光客が多く訪れるようになった。そんな中、町で観光客相手に商売をし、そこで得たお金をもとにドラックや酒の世界に入る子どもが多くいたという。それを放課後の時間を有効に使うことで未然に防ごうという目的でC C C は運営されているという。歌や踊り、英会話や織物の教室があるという。子ども達の笑顔をみて、これからもC C C の活動が続いていってほしいと強く思った。

<村で過ごしてみて…>
 私たちはJ V C の活動を見させていただくために、ナトン村というビエンチャンから車で3 時間ほどいった村を訪問した。彼らは村で自給自足の生活をしていた。村で私たちはJ V C が緑肥をまき、実験しているという田を見させていただいた。しかし残念なことにそこの田では害虫が発生してしまい、思うように稲が育っていないとのことだった。

 農業だけで自給自足している彼らの生活。テレビは村に一つしかない、電気さえ通ってない。村で何が必要なのかを考えてみたのだが、日本での生活と比べれば必要なものだらけに感じた。しかし、彼らの目線に立ち考えた場合の必要なものはなんだろうか。

 それは、生活する上で必要な農業の収穫を良くすることであり、生きていくうえで必要な乳児の死亡率が高いのであるなら衛生状態を向上させることであろう。JVC はラオスで生産力の向上を推進したり、牛銀行や米銀行などのシステムを広めているという。また衛生上必要な事項を記した冊子を配布したりしているそうだ。土地や生態系保護のためになかなかうまくいかない面があると思うが、彼らが生活をし、生きていく上で必要な支援なら推進していってほしいと感じた。

 また、彼らの家族や隣人で助け合っていく生活をみて考えるようになったことがある。それは支援の手が入ることのマイナス面もあるのではないかということである。例えば、支援することでたくさん作物が収穫でき村の生活が豊かになる。働き手がそこまで必要でなくなって、余剰な労働力が町へ流出してしまうかもしれない。また村人と異なる文化をもった人間がその村に入り、物質的に豊か暮らしを垣間見せることの影響である。人的にしろ資金面にしろ支援することの難しさを感じた。日本は経済的な豊かさを実現する過程で地域社会や国民の生活環境は急激な変化にさらされ、さまざまな問題と困難に直面することになった。例えば、それは水俣病やイタイイタイ病などの公害問題や工業都市周辺地域および、その関連地域の自然・環境破壊であり、過疎化や過密化による地域社会の絆の薄れでもあった。私たちは日本に住み、その現実を目のあたりにしているから村に・ ・ ・ラオスにそうなって欲しくなくて「このままで」ということを願ってしまう。しかし日本人である私がラオスをこのままでいてほしいとばかり望むことはできないと思う。中にはやはり町に出て働きたいと思う人もいるだろう。そこに自分のやりたい夢があるならそれは拒めないのではないか。村から人がでて行く現実は悲しいけれど、もしそこにやりたいことがあるのなら、それは否めない。色々な夢を持つ権利が世界中の人にあると思うからだ。

 ただ町に人が流れた結果、スラムが形成され、ストリートチルドレンが生まれるという可能性も否定できない。インドネシアやベトナムでの光景をこのラオスでも目にする日が来るのかもしれない。今のラオスでのこんなに美しく豊かな景色の中に身を置いたため、その気持ちは強くなった。


変わりゆく?変わらない?ラオス(「かけ橋」第21号:2003年6月23日発行)
関洋介運営委員

古都・ルアンパバン
 朝、5 時半。オレンジ色の袈裟をまとった僧侶の托鉢を横目にプーシーの丘の階段を登り切り、朝もや越しに黄土色のメコン川を望む。街が活動し出すころ、女子学生がラオス民族衣装である筒状のロングスカート「シン」を身に着け登校している姿が目に入る。裾に施してあるきれいな刺繍が特徴だ。王宮博物館やワット・シェーンなどの寺院を歩けば、西欧人を中心とした観光客もあちらこちらに。モン族のマーケットでは、幾何学模様や動物模様に編まれた生地についつい見入ってしまう。モン族は高地ラオに属する山岳民族だ。ラオスには6 8 とも1 3 2 とも言われる数の部族が存在する。夜はメコン川のほとりで、名物の揚げた川のりを肴にビア・ラーオを飲み、カオニャオ(もち米)を指で握っては口に放り込む。そんな風に、ゆったりと時間の流れるルアンパバンの中で一番印象的なのは、今はもしかしたら道路舗装工事かもしれない。あちらこちらで、赤茶けた土が掘り返されている。1 9 9 5 年にユネスコの「世界遺産」に登録された古都ルアンパバンの町並みは、少しずつ変化している。

ちょっとだけラオスの歴史
 そのルアンパバンはかつてランサン王国の王都として1 7 世紀に絶頂を迎えた。その後1 8 世紀に3 国に分裂、一度はシャム王国が統一するに見えるも、1 8 9 3 年にフランスによって仏領インドシナとして支配されることとなる。フランス統治下のラオスでは、伝統産業やラオス語などの文化が軽視されていった。

 二次大戦中に日本の侵攻により仏領インドシナは解体。日本が降伏すると一旦独立するも内乱が発生。ラオス愛国戦線が1 9 6 0 年にソ連との外交を樹立。内戦が続く中、ベトナム戦争では、米軍からラオス領内のホーチミン・ルートへの空爆を受ける。1 9 7 5年に現在の国名「ラオス人民民主共和国」が建てられ社会主義へ移行。しかし近年は、タイや中国、西側諸国との協調や、市場経済の導入といった路線をとっている。ちなみに、ラオスに対する日本のODA の援助額はここ数年上位に位置している。

首都・ビエンチャン
 そのような歴史の中で今首都が置かれているのが、タイとの国境沿いにあるビエンチャンである。あまり高い建物は見当たらず、町には緑が多い。パリの凱旋門を模して建てられたパトゥーサイ(アーヌサワリー)の前のランサーン通りは舗装されているが、まだ町には地面剥き出しのところも。街角には、日本のバイクメーカーの名前を掲げる看板が見える。バイクと車は多く見かけるが、タクシーの代表格はまだトゥクトゥク(オート三輪)。料金交渉をしてから乗るのはアジア共通のようだ。対岸にタイを臨むメコン川に沈む夕日は、一度見たら絶対に忘れられない。

 夜は静かに暗くなってゆく。季節にもよるが、日中の暑さとはうって変わって、長袖が欲しくなるくらい川風が涼しい。そして時々のバイクの音以外は、まさしく「静寂」が訪れる。しかし酒場はもちろん、インターネットカフェは夜遅くまで明かりを灯している。

ラオスの車窓から
 首都ビエンチャンからルアンパバンまで、陸路で北上する際に通るのが国道1 3 号線。途中、ビエンチャンから5 2 キロの位置にある市場(名前も「5 2 キロ村」)に寄り、麺類で朝食を済ませ、昼食の買出し。轟音を響かせて走るバスの側面には「O D A 」の文字が見える。フアイタモンと呼ばれるナムグムダムのはずれの地区を通過すると、車から見える景色も少しずつ姿を変えてゆく。山あいを切り開いた道路のせいか、緑の多さには本当に驚かされる。学校に集まる生徒の制服の群青色が緑と黄土色の中で映える。ちなみに、ビエンチャンからルアンパバンまで約10 時間かかるとのこと。


農村部
 悪路を進み、やっと車から降りると道の両側に村が広がっている。軒先でたたずむ村人に「サバイディー」(ラオス語のあいさつ)と手を合わせ、声をかけると、笑顔で返してくれる。幼い子どもたちは、街の子どもたちよりも幾分恥かしがりやが多い。J V C のスタッフ、村人(村長、長老、村の役人などの中年男性と、数人の若者の男性)とともに、簡易水道施設の水源まで、生い茂る草木をかき分けての沢登り。村の人の話を聞いて質問などした後は、バーシー(木綿の糸を手首に巻く、祝福や安全祈願のための儀式)を村の長老が執り行い、運がよければラオラオ(自家製焼酎)を村人とあおり、別れを惜しむ機会があるかもしれない。

ラオスはどこへいく
 J V C の乳児死亡率低下のプロジェクト支援をきっかけに、N V C が1 4 年間つきあいを続けてきたラオス。市場経済導入に伴い社会が変化していくのは当然であるし、A S E A N(東南アジア諸国連合:1 9 9 7 年ラオス加盟)と協調していく上での時代の要請というものもあるだろう。しかし、ラオスがタイやベトナムのように発展していくのか、と問われると何故か答えに窮してしまう。

 歴史的に地方分権社会であったラオスで、現政府当局の方針は、どの程度影響力を持つのだろうか。ラオスは今後発展の中で、どのような点で変化して、どのような点で独自路線を貫くのか。更に言えば、開発とは一体何なのか。開発はラオス政府にとっては援助であり、援助は援助を生む。ここには、「日本が反省すべき教訓」があると言うより、「人間はどれだけ自立して生きていけるのか、あるいは自立すべきなのか」という命題がある。そんな気がしてならない。

 N V C は今年もJ V C ラオスと協働で、農村の自立のためのプロジェクトを行う予定であり、さらにN V C と関係の深い新潟大学国際ボランティアサークルをはじめとする若者たちがルアンパバンの子どもたちとの交流を続けている。N V C の会員でもラオスと関係の深い方は大勢いる。初心を忘れずに、共に学んでいきたいと思う。